本・花・鳥(ほん・か・どり)

本とか植物とか野鳥とか音楽とか

西遊記(上・下)/太田辰夫・鳥居久靖訳 

西遊記は子供の頃から大好きで、この翻訳版もおそらく5〜6度目かの再読である。他の翻訳(岩波文庫中野美代子訳、現代教養文庫の村上知行訳)、平岩弓枝の翻案なども読んだが、やはりこの平凡社版の太田・鳥居訳が一番面白いと思う。

漢詩の部分などは意訳せずに読み下し文にとどめて適当に漢文調のいかめしさを残しつつ、講釈のような調子の良さもある。初版が1961年、改訂版が1971年で、おし、つんぼ、あきめくらなど、現代では使用できないような表現も使われているが、唐の時代の三蔵一行が「目が見えない」とか「視覚障害」とかを使っても不自然だし、致し方ない。そもそも何かの例えに障害を使うことが誤っているとは思うのだが、それとても現代的な認識なのだろう(若い頃の留学記が話題になった評論家が先頃亡くなったが、進歩的文化人に分類されるようなこの人ですら「ぼくは英語におしでつんぼ」などという表現を平気で使っていたのである)。

さて、本書の魅力は何と言っても悟空の活躍である。石から生まれて様々な修行を積み、神通力を獲得して増長した悟空は天界を騒がせた罪で五百年の間両界山に閉じ込められる。許されて後、玄奘三蔵の弟子となり、取経の旅に付き従うことで徐々に闊達で忠実で我慢強い人格に成長していく過程と対照的に、三蔵の方が未熟な感じがする。禅僧としては優れているのかもしれないが、悟空の慧眼よりも猪八戒の陰口の方を信用し、何度か悟空を放逐するのである。そこが凡俗の人間らしいと言えば言えるのかもしれないが・・・。

猪八戒がなかなか良いキャラクターで、これは悟空の忠良さを引き立てるための悪役であろう。怠け者で大食らいでずるくて好色という、実に低俗な人格なのだが、どこか愛嬌があるので得をしている。ねずみ男的という感じか(笑)。沙悟浄は実直な忠僕という感じで、やや影の薄いのが気の毒だ。

道中に様々な妖怪やトラブルが頻出し、よくもまぁこれだけの想像力が働いたものだと思うが、西遊記は誰か一人の作品ではなく、長い間語り続けられてきた講釈であり、その過程でいろいろな脚色が与えられたものであろう。

ただ、なぜ孫悟空はあのように妖怪たちに手こずるのかが不思議だ。大抵は天界の神々や如来観音菩薩等の手助けを借りているが、そもそも悟空が天界を騒がせた時、神将たちでは歯が立たず、如来しか悟空を取り押さえ得なかったはずなのだ。このあたりは村上知之も触れていて、村上訳では他者の手を借りる場面は大幅に割愛したと書いている。

西遊記に登場する神仏は、道教系の神々と、天竺に坐す如来を始めとする仏たちだが、道教や易の小道具を多用しており、このあたり、伝奇好きにとってたまらないものがある。

西遊記を始め、三国志水滸伝金瓶梅など、中国で伝えられてきた物語がに日本に移入されて江戸期の黄表紙や読み本に発展し、現在の時代小説につながっているのではないかと思うと感慨深い。このあたりの小説群は日本の娯楽文芸のご先祖様なのかもしれないと思ったりする。

太田・鳥居訳平凡社版の通読はおそらく二十年ぶりくらいである。いくら面白いとは言えこの厚さにはやや辟易とするので、この後、再読することがあるかは不明(笑)。五分冊くらいの文庫になれば手に取りやすかろうにと思う。