本・花・鳥(ほん・か・どり)

本とか植物とか野鳥とか音楽とか

車谷長吉句集/車谷長吉 

著者が俳句に秀でていることは知っていたが、ほとんど目にする機会はなかった。しかし、数年前に剽窃(と言うより類句類想のレベルであろう)騒ぎを起こした末の弁明が収録されているようなので興味が湧いた。

人間の業や闇を描くのが著者の小説の作風であり、俳句も同様におどろおどろしかったり演出過剰であったりしてあまり趣味に合うものではないが(俳句は事物を即物的無機的に詠み、なおかつ余韻や抒情を生じさせ得る文芸と思っているのである)、時折、ふっと肩の力がの抜けて飄々としていたり叙情的だったりする句があり、やはり只者ではないなぁと思わせられる。

いくつか好きな句を抜き書き。

 浅き春人の渡らぬ橋渡る
 草若葉田舎巡査の尻の跡
 日に夜に薬呑むうち夏来たる
 飛びきたり翅をたゝめば紅娘(てんとむし)
 わが嫁が鬘買ひたり秋暑し
 新聞で秋刀魚を包む男かな
 冷気吸ふ友の手紙を引き裂いて
 売り忘れ青黴のふく蜜柑かな
 頭陀袋持ち重りする春の雨
 春風や庭鳥の尾をくすぐりて
 中年やメロンの味に胸騒ぎ
 人訪ね見知らぬ道に蓼の花
 詫びに行き昼飯出され鯖光る
 冬の日や淋しき人をゴリラ見る

「ぼんくら」と題した弁明の文章も面白い。問題の発端は、著者の発表した下記の句が先人の作品と酷似しており、盗作と告発されたことである。「一生」は「ひとよ」と訓じるらしい。

 青芒女の一生透き通る 
 ふところに乳房ある憂さ秋暑し

 先例
 青蘆原をんなの一生透きとほる 橋本多佳子
 ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき 桂信子


「以前に読んだ句が印象に残っており、それが自分の言葉と思い込んで出てきてしまったものである。私はぼんくらだ。」というのがこの問題での著者の弁明である。

俳句は十七文字しかない文芸であり、しかもそのうちの五字から七字を季語に費やすのだから発想の似ているものが出てくるのは致し方ない。致し方ないが、新たな表現を目指す以上、先例がないように勉強しなければならないのだろうと思う。が、句作はしないので、その辺は分からない。

この論争で、著者の斡旋した季語の方が原句よりも良いんじゃないかと言う評価もあったようだが、どちらにしろ、女性性・身体性・エロスなどを読み込んだ句が好きではないので、これも分からない(笑)。

印象に残ったのは次のような文意である。

「人間は誰でも生まれて来たあとで、他人の言葉を聞き、詠み、書きして言葉を習得する。自分たちの言葉はすべて他人の言葉を吸収したものである。それではそれはいつ自分の言葉となるのか。それは他人の言葉が自分の魂と結びついた時である。」


これこそオリジナリティの発露と言うものであろう。ただ、潔く不明を恥じているのか、弁解しているのか、よく分からないところがやはりこの作者は面白い(笑)。