本・花・鳥(ほん・か・どり)

本とか植物とか野鳥とか音楽とか

コンニャク屋漂流記/星野博美 

ライターである著者が自身のルーツを探ったノンフィクション。

著者の祖父は千葉県御宿の岩和田という漁村の出身である。コンニャク屋という屋号を持つ漁師の家で、大正頃、町工場の丁稚奉公のため故郷を後にし、独立して経営者となったが、故郷との縁は強く、著者も幼い頃からコンニャク屋の人々と接し、誇りや親近感を抱いてきた。

そして、祖父が晩年に書き残した覚え書きを元にコンニャク屋周辺の事情を詳細に書き記し、紀州の漁師の子孫である伝承からルーツを求めて郷土史を探り、ついには和歌山県の加太、湯浅にまで足を伸ばすのである。

何しろコンニャク屋の人々の描写が楽しい。漁師気質であり、陽気でにぎやかでお調子者で情が濃い。東京育ちである著者も著者の父親も、父祖の地との交流を心から愛している様子がありありと分かる(おそらく人間関係が今どきの都会よりも密なのだと思う)。

400年前まで遡ってのルーツ探しはとてもスリリング。なぜ無関係の人の家族史にこんなにロマンを感じてしまうんだろうと思うが、おそらく、我がルーツを知りたいという欲求は多くの人の共通だからなのだろう。

本書は2011年の出版なので、震災についても触れられている。外房の御宿は当然津波の到達が予想され、親戚のことを思いやきもきしたそうだが、自分は父祖の地が最大の被害を受けた被災地なので、これについては共感できる。

震災の当夜、深夜の街を歩きながら同行者と互いの先祖や故郷について憑かれたように語り合ったことに触れられれているが、これが言わば震災の恐怖から逃れるシェルターとなったそうだ。

あとがきから引用
「しかしあの晩の昔話は、実は私の記憶ではない。死期の迫った祖父が書き残した、祖父の記憶なのだ。自分が生きた証を残したい。そんな思いのつまった祖父の記憶が私に手渡され、いつしか私の一部になった。そしてそれはいざという時、外部世界から私を守るシェルターになった。
 そして私もまた、誰かに記憶されている。恵美子さんの記憶が、忘れかけていた記憶を穴埋めし、また自分の一部になっていく。
 記憶−それは不確かで移ろいやすく、手渡さなければ泡のように消えてしまう、はかないもの。
 だからこそ、けっして手放したくない、何よりも大切なもの。
 歴史の終わりとは、家が途絶えることでも墓がなくなることでも、財産がなくなることでもない。忘れること。
 思っている限り、人は生き続ける。
 忘れること。忘れられることを恐れながら、それでも生きていこう。
 私はいま、そんな風に感じてる。」

恵美子さんとは父親のいとこで、著者の幼いころのエピソードを語ってくれた人だ。

このあとがきから思い出すのは、亡父の死後、従叔父(父の従弟)が語ってくれた父の若い日の思い出である。メールにいろいろ書き連ねてくれてありがたかったが、だから自分も、亡くなった伯叔父母の思い出は、できるだけ思い出して親戚たちに伝えていきたいと思う。それにしても少子化の昨今、こんなににぎやかな親戚づきあいはこれからはあまりないかもしれないなぁ・・・。

余談だが、従叔父のメールはパソコンの廃棄とともに行方不明になってしまった。残念!