本・花・鳥(ほん・か・どり)

本とか植物とか野鳥とか音楽とか

三日月が円くなるまで/宇江佐真理

東北の大藩であった仙石家は、戦国のどさくさに家臣島北に独立されて藩領の肥沃な土地を奪われ、江戸の現在に至るも角逐を繰り返しているが、一橋家の賄賂の要求を断ったところを島北が横取りして面目を潰された上に、島北が版図を拡大しようとしている気配が伝わってきて、藩主は病の床に就いてしまう。

義憤に駆られた在郷藩士の子息・正木正左右衛門が島北藩主の首級を挙げると飛び出すや藩内は喝采し、藩の重役である刑部秀之進は子息小十郎にこのサポートを命じるのだった。

主人公小十郎は、人は好いながら堪え性がなく、学問も剣も凡庸である。父親の命に従い、父親の懇意にしている町屋に落ち着くが、武家のプライドやしがらみや家というものに疑問を覚えている。それほどにして守るものかと思っているのだ。家主の娘ゆたとの交情が情緒豊かに描かれ、恐らくこのまま町人になって夫婦になるのだろうなぁと思わせるが、そう都合良くは展開しない。

人間として凡庸な小十郎を、父親は最初から使い捨てにするつもりだった節があり、藩や父のあまりの理不尽さに怒りを覚える小十郎だが、思い切って致仕することも出来ない。小十郎の家主・八右衛門も、かつては長崎奉行の下役で、上司の言うままに抜け荷に加担して追放された身なのだが、お勤め上の理不尽にさらされながら生きなければならない姿は、やはりサラリーマン社会を映しているのだろう。談合と天下りのバーターを代々引き継いできた官僚が、透明性や情報公開や規制緩和の現代では問題とされて逮捕される姿に重なってしまう。

物語の序盤で、小十郎は雲水・賢龍と知り合い友誼を結んでいるが、何かと賢龍を頼りにしていて、危機に陥るたびに「俺を見捨てるのか」と叫ぶのが情けなくて微笑ましかったりする。

在家信者のふりをする必要があり、賢龍が世話になっている寺で座禅の修行をしていて、ここで禅寺のしきたり通りに古参僧侶にいじめられ、多少は人変わりしてたくましくなったかなぁと思わせるが、それがそうでもない。どうも全てがこの調子で、物語の進行も、人間の機微の描き方も中途半端な感じがする。妙に行間がスカスカしているのも物足りなさを思わせるが、こういうのは編集側の意図だろうか。面白くはあるが、軽すぎてすっきりしない長編だった。