本・花・鳥(ほん・か・どり)

本とか植物とか野鳥とか音楽とか

桜咲いて母は空に帰る

母永眠。


12月末、母がトイレから出る時、歩行器をつかまえ損ねて転倒してしまい、足の付け根が痛くて立てないというので、大腿骨骨折を危惧して救急車を要請。案の定大腿骨頸部骨折だった。

入院したのは近隣では最先端の病院で、急性期を過ぎたらリハビリ病床のある病院や老健へ移らなければならない。幾つかの提案があり、持病の多い母のことでもあるので、医療ケアのある病院を希望。2月1日に転院した。

そこでのリハビリに期待したが、貧血とか、血小板が極端に少ないとかで、医師がなかなかリハビリを指示せず、結局寝かせきりの日々が続く。数値が落ち着いたところで、ベッド上で体を動かすようなリハビリから始め、車椅子でリハビリ室へ移動し平行棒で立たせてみるというようなこともしていた。

自力では立てないまでも、介助してポータブルトイレを使えるくらいには回復して欲しいものだと思っていた。リハ病棟では歩行器で歩き回る高齢者が多く、ああなって欲しいと羨ましく思ったが、まぁそこまでは無理だろうなとも覚悟していた。

二、三日に一回は病院に行き、母に顔を見せに行っていた。特に話すこともなく、一時間ばかり顔を見合わせているくらいだったが、頻りに「うちに帰りたいよ」と話す母には幾らかの慰めになっただろうと思う。

僅かなリハビリを続けるうち、病棟の担当医から来て欲しいと病院に呼ばれ、何かと思ったら、母が腸閉塞を起こしており、血小板の数値が恐ろしく悪くなっているとのこと。そして延命治療についてどうするか問われ、姉と相談の上、助かるためならやって欲しい、無理な延命は希望しない旨の同意書にサインした。

「親の寿命を決めるようで気が重い」と医師に言ったところ、「そんなことはないんです。無理な延命は苦痛を長引かせることになるんですよ」と言われたが、まぁ、家族の負担を取り除くための助言だったのだろう。

腸閉塞のため絶飲食になった母は、この後、水分と栄養点滴で二週間ほど推移した。食べ物が口の中を通らないとしゃべるのも大変そうで痛々しかったが、わりと話すことはしっかりしており、回復に僅かな期待を抱かせた。

死亡の三日前、腸閉塞担当の外科医と面談。腸閉塞は幾らかは改善しているが、心臓に負担がかかっており、完全な回復ではないとのこと。以後、在宅か療養病床への転院の選択が必要だということで、家へ帰りたがっている母のため、介護が重くなることは覚悟の上で在宅を希望。ソーシャルワーカーに訪問担当医やケアマネージャーとの調整を依頼した。

そして3月26日早朝5時前に携帯が鳴り、病棟看護師より「意識がないのですぐ来て欲しい」と連絡があった。20分ほどで駆け付けたところ、呼吸が荒くなっている状態で、看護師に「今すぐではないでしょうが、おそらく今日中に」というようなことを言われて長時間待つ覚悟をしたが、結局、1時間も経たないうちに目を閉じることになった。死因は心房細動からの心不全ということで、心臓に負担がかかってしまったのだろう。

介護の手を煩わせなかったことでは最後に子孝行をしてくれたと思うが、それでも「家に帰りたい」という望みは叶えたかった。これを思うと何とも切ない気分になる。あの病院でなければ助かったのかも、などと思わぬ事もないが、持病が多かったし、致し方なかったのかもしれない。

塩分制限や脂肪制限があり、普段の食事がかなり質素になっていた母だった。死ぬ前くらいには好きなものを食べて欲しかったがこれも叶わぬことに。母はおでんのちくわぶが好きだったので、この冬も一度くらいは作った記憶がある。帰ってきたらおでんを作るから元気になって欲しいと願っていたのだが。

亡くなった日の夕食はオムライスにして仏壇に供えた。母の生前、塩分や脂肪分を減らすために薄味でケチャップ炊き込みオムライスにしていたが、数年ぶりの炒めたオムライスになった。

母は料理好きで、元気な頃はよく冬場にキムチを作っていた。これがかなり美味であり、親戚などに送っても好評だった。母が生きているうちに作り方を受け継ごうと思っていたが、間に合わなかったな。

涙腺の乾いている人間なので、親が亡くなっても泣くことはない。しかし、心に穴の空いたような欠落感を持ってしまう。父の時とはやや心持ちが違う感。

井上靖が、親は死に対する防壁となっており、親が亡くなると今度は自分が死と向かい合う、と言うようなことを書いていたと思う。父が亡くなって12年、そして母が亡くなり、完全に防壁がなくなった時、自分が老いの入り口に立っていることを意識している。

死亡の二日後に介護レンタルの引き取り。玄関を塞いでいた車椅子や、座敷の介護ベッドがなくなり、妙にガランとして物寂しい。人がいなくなるってこういうことなのかもしれない。介護レンタル担当のAさんは親切な人だったが、もう会うことはない。介護レンタルの人とは、利用者本人よりも家族の方が接することが多いので親しみを持っていたが。ポータブルトイレは粗大ゴミで出せる由。またひとつ、母の使ったものが消えていく。

そして昨日の告別式は、空気は冷えるがよく晴れた日だった。桜が満開になりかけで、桜が好きだった母にはちょうど良い季節だ。母の近い身内と、故郷や近隣で仲の良かった人たちに見送られ、棺の中で花いっぱいに埋もれて母は旅立っていった。戒名には「慈しみの春」という意が込められており、いい戒名になった。そして、小さくなってあれほど帰りたがっていた家へ帰宅した。

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