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史記 武帝紀(全七巻)/北方謙三

司馬遷の書いた史記がいかなるものかよく知らないのだが、北方謙三がこれを描くとなれば面白くないわけがなかろうと思い、北方版大水滸伝51巻(水滸伝19巻、楊令伝15巻、岳飛伝17巻)を読了した後、更に手を伸ばしてみた。

前漢の第7代皇帝で、即位したばかりの武帝にはまださほどの権力はなく、外戚などにも気を遣いながら、それでも独自の国家経営に歩み出そうとしている。その一つが昔からの懸案である匈奴への対応で、攻め込まれては略奪され、守るだけがそれまでのやり方であったが、武帝匈奴を叩きつぶしたいという野望を持っており、これに呼応したのが武人の衛青であった。卑賤な育ちながら、武帝の寵妾の弟であるということで取り立てられると、武帝の意を汲み、それまでの軍人になかった果敢さを見せて匈奴へ攻め込んでいくのである。

将軍にまで上り詰めた衛青にとって甥である霍去病も力を発揮し始めるが、戦に関して天才的な閃きを見せるもののやや軽躁でもある。守るばかりでいいのか、危機になる前にこちらから攻め込むべきではないのか、などの議論があるあたりは日本の立場の暗喩かもしれない。遊牧と略奪で生きている剽悍な匈奴はすべてが戦士であり、個々の能力は高いが、戦術や戦略では衛青に及ばない。匈奴なりの誇りも持っており、その辺のせめぎ合いが面白さだ。

ついに匈奴を北へ追いやり、我が世の春を謳歌する武帝だが、匈奴への執着は弱くなり、傲慢な浪費を繰り返すようになる。外戚に気を遣いながらも自分の意志を貫いていった若い頃の武帝には共感するが、万能感から自我の化け物となり、おそらく死の恐怖にも囚われ始めている様ではむしろ真摯な匈奴の方に肩入れしたくなるというものだ(笑)。 
 
史記の書き手たる司馬遷は、当初、正論ばかりを述べて周囲を辟易させる頭でっかちとして登場する。そして、武帝の前で正論を述べて腐刑を受けるのだが、そこから人間が鬱屈した果てに記録者としてめざましい活躍をするあたりが読みどころか。

後半では、匈奴に囚われ流刑にあった漢人蘇武の厳冬との戦いサバイバルが面白かった。戦いがないと己を保持出来ない武人(元は漢の武人だが、匈奴に降伏している)が厳冬のきびしさを味わいたくて合流するくだりもあり、何かが欠落していたり、心のどこかが壊れていたりするような男たちが必死にもがいてもがいて勝利を得ようとするあたりが北方歴史小説を読む楽しみなのだろうなぁと改めて思った。中国史小説では宮城谷昌光の人気が高いが、主人公が品行方正で妙に人間が出来ている宮城谷作品とは好対照の感。