本・花・鳥(ほん・か・どり)

本とか植物とか野鳥とか音楽とか

調律師/熊谷達也

文庫化にて古い投稿を再掲(=落ち穂拾い(笑))




共感覚(音と同時に色が見えたりする特殊な感覚)を持つ調律師が主人公のる連作長編。

かつて将来を嘱望されたピアニスト鳴瀬玲司は、ドライブ中の事故で調律師の妻を失い、自分もピアニストの道を絶たれて現在は調律師として生きている。そして事故以来、妻が持っていた共感覚(音とともに匂いを感じる)を宿すことになった。

依頼先のピアノを調整している過程で、ピアノの弾き手の背景などが匂いとして感じられるあたりはちょっとオカルトっぽいが、悪臭を持っていたピアノが徐々に芳香に変わっていき、背景事情が明らかになる過程はスリリングで叙情的である。

正直なところ、調律というのは弦を調整して音程を合わせるのみの作業と考えていたが(昨今はデジタルのチューニングメーターがあるし、音程の狂いなどはセンサーで調整できると思っていた)、ハンマーのフェルトに針を通すだけで音色が変わったり、実に繊細な作業なのであるらしい。そしてその繊細さが物語に重厚さを与えている。家にも姉のピアノがあったので調律の作業は子供の頃に何度か見ているが、どちらかという大工仕事のように見えたものである(笑)。

著者は仙台在住で、震災前から書かれ始めた作品は震災をはさんで大きく影響されたらしい。仙台のホールでグランドピアノを調律中、震度6強に遭遇した鳴瀬は避難所の底冷えの中で一夜を過ごし、翌日津波の被害を知る(このあたりは震災時のザワザワ感を思い出してちょっと落ち着かない)。そして鳴瀬の中で何かが変わる・・・。

妻を事故で死なせたことを悔やんでいる鳴瀬にとってこの変化は救済であり、なんとも美しい。そしてこれは震災へのレクイエムなのだろうなと思ったことである。