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東天の獅子 天の巻 嘉納流柔術 全四巻/夢枕獏

柔道史を格闘小説に組み入れた格闘技歴史小説とでも呼ぶべきものか。講道館柔道の成立を描いているが、冒頭では、プロレスに転身した木村政彦(かつては柔道の鬼にであった)がブラジルでエーリオ・グラッシェなる格闘家とバレツウズ(バーリ・トゥード)というルールでセメントマッチを行っている。本作は、本来はブラジルに柔術を伝えた前田光世の評伝小説だったはずが、導入部の講道館成立篇に大いに紙数を割いてしまったため、独立した物語となっているらしい。

現在のスポーツ柔道のほとんどは講道館柔道であろう。投げ技中心で一本勝ちを狙うというスタイルを創造したのが嘉納治五郎であることは何となく知識として知っているが、その人物像についてはほとんど知らないので、興味深く読んだ。

何しろ嘉納治五郎はインテリである。東京大学を卒業し、学習院大学で教鞭を執る傍ら、新しい柔術を完成させるべく日々研鑽している。柔術に限らず、それまでの古武術が、もったい付けて奥義や秘伝を神秘化しているのに対し、人をたやすく投げるにはバランスを崩すこと、などと術理を研究し、それを弟子に伝えていくことで、誰でも学べる柔術を究めようとしているのだ。温厚で研究熱心で和魂洋才で、明治のインテリ気質を彷彿とさせる。

夢枕獏曰く「後に、柔道や柔術が世界に広まって競技化してゆく過程を眺めると、明治という時代に嘉納治五郎という存在が柔道という新時代の武道を創始したと言うことは、人類史的な事件であったと言ってもいい。」

作中、血みどろな格闘場面が随所に展開されるが、柔道・武術に関する史実や私見に大幅にページが割かれている体裁はまるで司馬遼太郎歴史小説だし、「と言っていい」「さて物語に戻る」と言った文体までそっくりではあるまいか(笑)。

講道館柔道が完成するまでには様々な古流との戦いも描かれる。講道館以前の柔術は言わば殺し合いの術であり、当て身(突きや蹴り)、倒れた顔を踏み抜く、参ったがなければ腕を折り、落ちるまで頸を絞めるなど、実に荒っぽいが、明治の世になって一度は廃れかけた柔術が、警視庁に採用されることによって息を吹き返しつつあり、警視庁武術試合において死闘が展開されるのである。これはもう夢枕獏お得意の場面で、生理的な擬態語を多用し、血と汗と粘液が混ざり合い、戦う男たちの快楽とも呼べそうだ。九州の中村半助、千葉の大森竹吉、 講道館横山作次郎、志田四郎など、それぞれが意地を賭けてぶつかり合うのだが、戦えば戦うほど強くなる、まるで天下一武道会の様相だ。そして、どの男も気持ちの良い好漢であり、真情の籠もったやり取りにぐっと来るのである。

やや単純な好漢たちに対して異色なのは武田惣角である。試合では常に本気で生死を考えている野獣のような武術家だが、立ち合った嘉納治五郎に対して完勝するものの、ふわりとした人間である治五郎に困惑している(笑)。

講道館柔道の中心である「投げれば勝ち」は、この時代には実践的ではない。投げただけでは相手の息の根を止められないからだ。しかし、格闘術から格闘技に変化していくのは時代の趨勢でもあったろう。

だが、昨今のスポーツ柔道は見ていて面白いとは思わない。攻撃しなければ反則、寝技膠着にはすぐ「待て」、そして5分という短時間で勝負を付けなければならない。時間無制限デスマッチの様相の警視庁武術大会の濃密な戦いに比べ、なんとも薄味の格闘技だ。だからこそ総合格闘技が受けたりするのだろう。

本書の終わりで、本来の主人公たる前田光世が少しだけ登場しているが、この後の物語も楽しみだ。