本・花・鳥(ほん・か・どり)

本とか植物とか野鳥とか音楽とか

仏果を得ず/三浦しをん 

お人好しで一生懸命でやや頼りない、文楽人形浄瑠璃)の義太夫語り健の成長を描く芸道青春小説。伸び盛りでもあり伸び悩んでもいるような中堅芸人が何かをきっかけに一歩階段をあがるというのは落語家小説などではありがちなパターンである(佐藤多佳子しゃべれどもしゃべれども」など)。健の師匠銀太夫は我が儘で天衣無縫で稚気あふれる、愛すべきキャラクターの人間国宝だが、この手の師匠の造形もよく見そうな気がするし、さほどの新味は感じられないのが正直なところ。

健は師匠の気まぐれでいきなり三味線の兎一と組むことを命じられて辟易する。偏屈で変人の兎一に辟易する冒頭は楽しいが、変人ぶりが最初ほど大げさではなく、この辺やや肩すかしの感。

自分は文楽はおろか歌舞伎でさえテレビで見ていて退屈してしまうほどの伝統芸能音痴なので、不真面目な高校生だった健が修学旅行で文楽を観賞させられ、雷に打たれたように魅了されてしまう、と言うくだりにはさほど共感できない。しかし、七転八倒しながら義太夫に取り組み健にはついつい肩入れしてしまい、文字で書かれる文楽の描写に引き込まれてしまうのは、あるジャンルを描いた小説として成功だろう(スポーツ小説にしても芸能小説にしても、読者にやってみたいと思わせたり、自分が実際に参加している錯覚を起こさせたりしなければ失敗だと思っている)。

「心中天の網島」にしても「寛平腹切」にしても「女殺油地獄」にしても、義太夫の登場人物たちは、どちらかと言えば人間として非道徳的で、健としてはなかなか共感しにくい。が、床本を読み込むことで我が身に引き寄せ、ついに一体化していくあたり、俳優でも落語家でも同じだろうが、芸能を演じる人間の真骨頂という感じがする。そういえば故立川談志は「落語とは人間の業の肯定である」と喝破したが、近松義太夫なども似たような物に思える。

ボランティアで行く義太夫教室の生徒の母親との恋愛に振り回されたり、まことに文楽の登場人物さながらに迷いっぱなしの健だが、「仏果を得ず(おとなしく仏にすがったりせず、この世を生き抜いてみせるというくらいの意味合いか)」との宣言が痛快。

健は寺の境内の一角に立つラブホテルの一室を安く借りて暮らしているが、大家の誠二との風変わりな友情がちょっと楽しい。健に踏み込みすぎることもなく、しかしそれとなく思いやりのある誠二だが、実家の寺とは何らかの事情があるような感じがあり、そのあたりを別のストーリーにしてくれたら面白そうだ。