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裸のフクシマ 原発30km圏内で暮らす/たくきよしみつ

著者は原発に近い川内村に居住していた作家・技術批評のライター・ミュージシャンなどを兼業する人で、福島第一原発事故以降、いかに国や県の対処がでたらめだったか、東電や原子力政策のインチキさ、線量が低いにも関わらず避難地域に組み入れさせたがる行政、そして賠償に依存して優雅に暮らす避難民のダメさ加減などを、怒りを込めて述懐している。

わざわざ線量の低い地域から高い地域へ避難させたなど、事故に対する国の措置に批判が多いことは知っていたが、スピーディーで線量の高い地域が分かっているのに、或いは実測データでも放射能漏れを知りながらそれを秘匿し、不必要に大量被曝させたという糾弾には、そこまでひどかったのかと愕然とする。かなり過激な批判になっているのは、避難地域住民としては致し方あるまい。

浜通りの町村のように原発補助金には頼らず、自立的に美しい村と産品を生み出してきた坂館村がひどく汚染され、なのにきちんとした対策がなされなかったこについても触れているが、自然回帰的に生きている人たちには運動やヒッピーの面影が見て取れ、そのあたりで行政に疎んじられていたのかなと思ったりする。著者自身にもそんな面影が感じられるし。

賠償金漬けで安楽な生活を送る避難民が多く、美しい川内村を再生できるの危惧を持つ著者は別の県に移住してしまったらしい。事故直後は川崎の仕事場に避難したものの三月末には川内村に帰って半年ほど暮らしていたそうだから、決して放射能を恐れてと言うことではあるまい。放射線を測定しながらの生活のストレスは読んでいるだけでも重い気分になるが、それでも踏みとどまろうとしたのだ。

紙一枚でもガンマ線は遮蔽できるとし、恐いのは外部被曝ではなく内部被曝だとする説明には実感がこもる。森林などの除染事業もわざわざ実施するほどの効果は期待できず、逆に粉じんと共に放射性物質が舞い上がり、内部被曝する恐れが多いという。そして、そう言った事業を請け負うのも原子力ムラの企業であるそうだ。

裸のフクシマとは補助金漬けで真実を知らされず、結局は土地から離れざるを得なくなった福島を裸の王様に例えててのタイトルのようだ。

よく「フクシマという表記はけしからん」という文言を目にする。ヒロシマもそうだが、全世界的に地名が広まってしまったからという意味合いで使うならFukushima(或いはHiroshima)が適切だろうということで、自分も一理ありと思う。片仮名では、ことさら日本人にのみネガティブなニュアンスを伝えていると思うが、著者がどのような意図で「フクシマ」を使ったかは不明。

原発事故直後、福島のひとたちの人心が荒廃してしまうんじゃないかと危惧したものだが、避難した人も残った人も粛々と日々生きている(東北人は辛抱強い、などと賛美をしたい訳じゃない)。福島も東北も復興しなければならないと強く思う。