本・花・鳥(ほん・か・どり)

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瓦礫の中から言葉を わたしの<死者へ>/辺見庸

宮城県石巻市出身の著者が、震災直後にNHKの「こころの時代」に出演し、震災を語った内容に基づいて新たに書き下ろされたもの。

震災後「ぽぽぽ〜ん」に乗っ取られたテレビから流れるのは「楽しい仲間」「ごめんね」「ありがとう」「絆」などの空疎な言葉で、報道で語られるのはデータ化された数値ばかり。今回の震災は予測を超えすぎて、日本人は(或いは著者自身)はこれを語る言葉を持っていないとして、だからこそそのその言葉を見つけるための思索が展開されている。

「ぽぽぽ〜ん」に乗っ取られたのは国家からの規制ではなく放送局の自己判断だとしつつ、一斉に右へ倣えするこの国の不気味さ、「個人」が「国家」に、「私」が「われわれ」にいつの間にか置き換えられている危惧も訴えている。確かにあのときは国中が(少なくとも東日本中が)沈痛な気持ちになり、それを糊塗するように「絆」「つながり」「思いやり」と言った生温かい言葉がテレビで喧伝されていたが、震災後一年で(と言うよりわずか数ヶ月で)、テレビは旧に復し、被災地や当事者ではない世間はすでに震災を過去のことのように考えていると思われる。著者の危惧がネガティブに否定された感。

悲惨な死を報道せず、震災直後から語られていた美談、感動秘話の類への批判は同感するところ。そんなものは後になってからワイドショーででも語ればいいと憤慨したものである。

「あの死者たち」と一括りにしたくないので「わたしの死者」と言っているらしいが、死者を語る言葉を探しての思索には真摯な印象を受ける。著者の育った家はどうやら祖父母の家の隣組だったんじゃないかと思われ、故郷を一瞬で失った者の痛みなのだろうと思う。 

番組を見た際に思ったが、相当に観念的で自己陶酔な人である。「天罰」などと震災に意味を見いだすべきではないと語っていて、地震は「宇宙の一瞬のくしゃみ」と表現しているのには、自分も震災を単なる物理現象(ただし大きな悲劇を伴っている)にすぎないと思っていたので大いに共感したが、しかしながら、著者自身がかなり震災を観念的感傷的に捉えているんじゃないかとも思ったりする(言葉と実態が乖離した現代を証してしまったとか)。まぁ故郷を語るのだから、それはそれで当たり前なのかもしれないが。

著者は「入り江は孕んでいた」という詩で、子供の頃から波音に不吉さを感じてきたのを表現しているが、あの地域ならさもありなん。