本・花・鳥(ほん・か・どり)

本とか植物とか野鳥とか音楽とか

春を恨んだりはしない/池澤夏樹

震災後のあれこれ、原発問題などを作家の視点で考察した随想。

作家が震災を語ると詩を引用したりしてどうしても文学的になってしまうのは避けがたいのかも知れないが、以前に新聞に掲載されたコラムをふくらませた「昔、原発というものがあった」が読み応えがある。

大学で物理を学んだ著者はかねてから原発に懐疑的であったらしい。興味深い意見なので、長くなるが引用する。

「科学では真理の探究が優先するが、工学には最初から目的がある。この二つはきっちり分けられなければならない。原爆を開発したマンハッタン計画について、科学者は探究を止められなかったという弁明が後になされた。しかし原爆は科学ではなく工学の産物である。科学はそれに手を貸したにすぎない。彼らは十万人の人間を殺す道具を、それと承知で、作ったのだ。」

やたらと安全をPRしていた原発について

「安全は不断の努力によって一歩でも近づく目標、むしろ向かうべき方位であるのに、それはもうここにあると宣言してしまった。だから事故が起こった際のマニュアルも用意しなかった。安全である以上そういうものは作るのはおかしいと外部から批判されるのを怖れたのだろう。科学とは自然界で起こる現象とそれを説明する理論の間の無限の会話である。現象を観察することで理論は真理に近づく。安全を宣言してしまってはもう現象を見ることはできない。」

(やっぱり詩的な表現だなぁ)

「(原理的に安全ではない原子力に対し)ここに無理がある。その無理はたぶん我々の生活や、生物たちの営み、大気の大循環や地殻変動まで含めて、この地球の上で起こっている現象が原子のレベルでの質量とエネルギーのやりとりに由来するのに対して、原子力はその一つ下の原子核素粒子に関わるものだというところから来るのだろう。」「この二つの世界の違いはあまりに根源的で説明しがたい。「何かうまい比喩がないか?」とぼくの中の詩人は問うが、「ないね」とぼくの中の物理の徒はすげなく答える。「原子炉の燃料」というのはただのアナロジーであって、実際には「炉」や「燃料」など火偏の字を使うのさえ見当違いなのだ。「唯一わかりやすいのは数字かもしれない。ヒロシマの原爆で実際にエネルギーに変わったのは約一キログラムのウランだったが、そのエネルギーはTNT火薬に換算すると一万六千トン分だった、というこの数字が含む非現実性を理解すること。両者の間には七桁の差がある。爆発というのは見たところは同じような現象でありながら関与する物質の量がここまで違う。最新の旅客機であるボーイング777LRは約百六十トンの燃料を積んで一万七千キロ先まで飛ぶことができる。もしも仮にこれが核燃料で飛べるとすれば、燃料は十グラムで済む。七桁の差とはそれほどの桁違いだ。」

と、分かりやすく例えてくれている。もちろん著者の見解だろうし、やや詩的すぎる感もあるが、詩人の考える原子力問題という点で興味深い。

仙台の介護マンションに住む叔母さん夫婦を札幌の自宅に移したエピソードや、被災地を訪ねた見聞なども興味深く、作家ならではの震災記である。決して絶望していない筆調に救われる。