本・花・鳥(ほん・か・どり)

本とか植物とか野鳥とか音楽とか

大[震災]震災 欲と仁義/荻野アンナとゲリラ隊 

作家の荻野アンナが「避難所は社会の縮図である」と見なして被災後一ヶ月くらいの避難所を取材した共同通信連載ルポ。同行した共同通信記者(河北新報に出向中)は仙台港津波に遭遇したそうだ。この記者の言によれば、テレビ取材で涙にくれる被災者はまだ嘆くだけのエネルギーが残っており、そんな力もなくした被災者は燃える瞳の操り人形となるという。この一節が迫真的でおののきを覚える。

テレビが涙と言葉を持つ人にのみマイクを向けているなら、「言葉にもできることがある」と奮起したのが著者である。震災後の表現者にありがちな「言葉の力」がやっぱりここにも出てくる。表現者にとっては己の存在理由と直結する問題なのかも知れないが、情緒的すぎるよなぁ・・・、と思うのがヒネクレ者の自分のような奴。ただし、実践が伴っているので、これは実際に「言葉の力」なのだろうとは思う。

避難所ルポは、人が善意と思いやりで避難所を運営している「仁義篇」と、物資庫を自分勝手に支配する(と噂される)某氏を取材した「欲篇」とからなる。避難所をこんなに面白おかしく書き立てていいものかとも思うが、それはそれで著者の筆力なのだろう。被災者の喫茶店経営者が設置した無料カフェで、メイド服を着込んでサービスしたりしているのだ。

読ませるのは欲篇で、商工会議所青年部OBの某氏は、支援物資の足りなさから、自分の人脈を生かして全国から物資を集めて(よその避難所にまで)配布しているのだが、それが一部の人間には私物化していると思われ、白眼視されるのである。某氏とて善意の塊でやっているのに、ねたむ人間(こちらも別に悪意はない)が出てくるのがまことに社会の縮図だ。

避難所の運営は、命令がなければ動けない役人とか、支援物資の効率的でない流通とか、矛盾だらけのシステムの中でやっていくしかない。「被災地では動かない善人よりも動く悪人」と喝破する著者の言うとおり、行政が機能しない間を勝手な行動で埋めようとした意思の方が尊重されるのだろう。

震災ノンフィクションとしては面白すぎるきらいはあるが、震災後の一コマを切り取っていて迫力がある。