本・花・鳥(ほん・か・どり)

本とか植物とか野鳥とか音楽とか

出星前夜/飯嶋和一

島原の乱の推移を多面的な視点から描いた歴史小説である。

島原は元々キリシタン大名有馬晴信の領地だったこともあり、住民にもキリシタンが多かったが、江戸幕府キリシタン弾圧政策によって一応棄教した形になっている。島原の乱が単にキリシタン弾圧への抵抗ではなく、過酷な税の取り立てによる貧困が百姓身分の者たちを蜂起させたと言われているが、本書でも、新たな領主松倉家によって表高の二倍の年貢を課されたことで村落は疲弊し、子供たちが傷寒(伝染性の熱病であろうか)によるばたばたと死んでいくところから幕を開けている。

子供たちを救って貰うべく有家の庄屋甚右衛門は長崎から医師を招聘する。甚右衛門は元は鬼崎監物という有馬家に臣従した土豪で、朝鮮征伐に随行し、過酷な戦いを生き延びてきた水軍の猛将だが、忍従こそが神の教えであると固く信じ、周りの者から松倉家の言いなりの臆病者と白眼視されながらも黙々と農に励んでいる誠実な男である。かつては剛胆者と思われていたが、戦で人を殺したときの記憶が忘れられず、出来れば若者に人殺しなどさせたくないとも思っている。甚右衛門のこの二面性が複雑で面白いが、後段、乱に突入した後は冷徹な戦闘者として描かれるのがちょっと違和感。

傷寒が猛威をふるう有家の若者、鍬之助(寿安)は、このままでもどうせ自分たちは死んでいくしかないのだと、村はずれの教会堂跡に一人立てこもるが、若者や子供たちが陸続と後に続き、取り押さえに来た松倉家の代官手代の者たちを殺してしまう。これが乱の勃発である。何とか私闘騒ぎで事を収めようとした甚右衛門と、少しは内政が分かる松倉家の田中藤兵衛だったが、松倉家内の武断派家老に知られ、弾圧の方向へ。今までも年貢減免の訴えなどをキリシタンとして処刑し、今回の事態も簡単に制圧できると思い込んでいたが、戦上手の甚右衛門が反乱を決意したことで事態は泥沼化していくのだった(ベトナム戦争の暗喩なのかと思う)。

また、寿安が一人で立てこもったとき、カリスマの登場に周囲の若者達が熱狂していく場面がある。甚右衛門が「戦は祭りに似ている」と述懐しているが、おそらく団塊世代の著者が、理想に燃えた学生運動(そしてその終焉)を二重写しにしたかったのだろうか。

著者の「黄金旅風」に登場した長崎代官平次平左衛門も本書に登場している。大名並みの資産を持つ平左衛門は、己の権力を使うことで貿易都市長崎の町と民を守ることを第一に考えている私心のない男である。幕府が動員した西国大名たちに煮え湯を飲ませた一揆だが、最終的には破滅に至ることを読み切っており、幕藩体制の一員として弾圧には協力しなければならない。現実を現実として割り切り、しかも理想を高くかかげて、こういう政治家がいればいいなぁと思う。

「蜂起でも、傷寒でも、赤斑瘡でも、多くの生命が目の前で消えて行った。死こそが実は永遠の本源であり、生は一瞬のまばゆい流れ星のようなものに思われた。その光芒がいかにはかなくとも、限りなくいとおしいものに思えた。」


引用部は小説終盤の述懐で、悲惨な戦いを描いた後に何ともほっとさせるものがある。

一部に蜂起のカタルシスを感じさせる部分もあるが、ことさらに戦いの場面のみを強調するでもなく、なぜ蜂起に至ったか、領主の愚劣さ、幕府上使の愚昧さ、庶民の感情などを克明に描き、重厚な歴史小説となった。文庫書き下ろし時代小説のお手軽さを否定するわけではないが、おそらくあの手の小説では味わえない満足感があると思う。そして、読了するのも大変だった(笑)。

しかしこの作家は寡作である。30年近い作家生活に五冊ほどの本しか上梓していない。歴史物第一作の「雷電本紀」からもずいぶん経つのに・・・。どの作品も自由を阻む者との戦いを描いて読ませるし、「黄金旅風」や「始祖鳥記」のように爽やかな読後感をもたらす作品もある。あぁ飯島作品がもっと読みたい(笑)。