本・花・鳥(ほん・か・どり)

本とか植物とか野鳥とか音楽とか

渡りの足跡/梨木香歩

野鳥観察を愛好する著者が、渡り鳥の観察記録と、なぜ渡るのかという根源的な問いと、旅をする人間を重ね合わせて哲学的なまでの考察を展開する野鳥エッセイ。渡り鳥とは言っても、暖かい地域を旅する南国的な鳥ではなく、オオワシオジロワシ、海鳥など、冬の日本と更に北方の夏を行き来する鳥が主に採り上げられているのは、その旅の過酷さ故に惹きつけられるものがあるのかもしれない。

戦時中、捕虜収容所に入れられ、ノー・ノー・ボーイと呼ばれて差別された日系移民の待遇のひどさ、ロシアの探検家アニセイエフの案内人だったデルスー・ウザラー、町中の狡猾なセールスマン、北海道開拓民のたくましさなど、移動する人を渡り鳥と重ね合わせるのは、いかにも作家らしいセンチメンタリズムだが、「動物の立場になって物を考える能力」が狩人としてのヒトを進歩させたという説のあることを考えると、こういう見立てもまた自然を愛する著者の本能なのかもしれない。

自然豊かな探鳥地でヒヨドリを見てしまい、なかったことにしようとしたこと、それによって思い出した自分の悪行(?)など、厚かましヒヨドリドリへの愛憎を綴ったエピソードは笑える。

著者は日本的な情緒や風土に根ざしたファンタジーが得意だが、著者自身の自然観が吐露されて、鳥好きかつ梨木ファンとしては大変に興味深く読んだ。各章に登場する鳥たちについて章末に著者自身による解説があるが、これも大変に楽しい。

「渡りは、一つ一つの個性が目の前に広がる景色と関わりながら自分の進路を切り拓いていく、旅の物語の集合体である。その環境が自分の以前見知っていたものと違っていたとしても、飲むべき水も憩うべき森も草原もなくなっていたとしても、次に取るべき行動は(引き返すという選択も含めて)最善の方向を目指すため、今出来ることを(とにかく何らかの手段でエネルギー補給をする、等)ただ実行してゆくことだけで、鳥に嘆いている暇などない。」という一文に渡り鳥への著者の思いが集約されていると思われる。

シカによる食害や外来生物の増加などを述べた上で『けれども「自然の生態系を取り戻せ」といったような考えもしっくり来ない。こういう事態に追いやった責任の大部分が人間にあるにしても、その人間もまたnatureの一部であるのだし、ならその欲深さや浅はかさもまたそのnatureなのだから、この状況こそが、この時代この場所の「生態系」に他ならない。』と言っている。自分も常々、環境破壊の材料であるコンクリートや化学物質もまた自然から人間が作り出したものだとするなら、それもまた環境の一部なのではないか、などと考えているため、この意見には大いに共感した。

しかしその上で、『だが、何とか環境の人為的な破壊を食い止めたいと試行錯誤する人々がその種の中に出ることもまた、自ら回復しようとする自然の底力の一つなのだろう。』としている。
 
スズメが減ってカラスが増えたのも人間生活に適応している今の自然故だし、環境変化もまた人間という生き物がもたらしものなら、不自然故に警鐘を声高に叫ばない姿勢にも同感する。

本書を読んだのは昨年末くらいで、震災・津波後の原発事故の起きる前である。自分の環境観からすると、放射性物質もまた人間の作り出した物なのだから自然の一部であるということになるが、さすがに3.11後の今はそうとは思えなくなったことを付記する。