本・花・鳥(ほん・か・どり)

本とか植物とか野鳥とか音楽とか

わたぶんぶん/与那原恵

沖縄育ちの両親を持つ著者が、ルーツである沖縄の味と風土を愛情を込めて描いた食味随筆。著者は早くに両親に別れており、そのせいで郷土にまつわる人々や味に対する思い入れが尚更強いのか、と思ったりするが、何ともノスタルジックで切なくてあたたかな筆致である。

『私の「料理沖縄物語」』と副題があるのは、かつて祖父の三度目の妻の兄ということで、戸籍上の大叔父であった古波蔵保好の著作にあやかってのことらしい。他にも、画家の南風原朝光が実の大叔父であったり、人脈に恵まれているようだが、或いは表現の才能も受け継いでいるのか。

冒頭と最後に登場する、新宿の沖縄料理店「壺屋」のおばちゃんのエピソードが何ともしみじみとおかしい。無愛想で乱暴なのだが、これは極度の恥ずかしがりで、初対面の客とどう接していいか分からないかららしい。豚のあぶら(あんだぁ)の滋味を堪能できるおばちゃんの「ソーミンプットゥルー」の美味しそうなこと・・・(笑)。

沖縄では、手作りの味わいを表すのに「てぃあんだぁ」と言い、お母さんの手のあぶらが料理を美味しくするという意味らしい。また、お世辞の上手いことを「あんだぁぐち」というらしいが、『おばちゃんの口にあんだぁはまったくついていない。ちょっとはつけてらといってみたいけれど、きっとぶたれる。』と結んでいる(笑)。

本書の最後に、『おばちゃんにたくさんの料理を教わったけれど、やはりちがう味になってしまう。おいしい料理を作るのはレシピでも技術でもなくて、「てぃあんだぁ」、手からにじみでる愛情のあぶらだ。料理をこしらえる手がちがえば、同じものにはならない。そのときの、そのひとの「手」だけが、その料理を生みだせる。料理をつくるひとがいなくなれば、その味はこの世から消えてしまうのだ。二度と味わえないからこそ、記憶のなかで鮮明になる。』とある。ここが本書のテーマであろう。しみじみと美味しい本である。
 
ひとつ頂けないのは、古波蔵保好を「保好おじさま」と書き、仲間の若いミュージシャンや沖縄文化人たちをファーストネームで呼び捨てに書いているところである。それぞれ個人の付き合いの中での呼び名であり、それを公の場に出すのは何か幼稚な気がして鼻白んでしまうのだが、当方の偏屈か(笑)。