本・花・鳥(ほん・か・どり)

本とか植物とか野鳥とか音楽とか

天地明察/冲方丁 

言わずと知れた本屋大賞受賞作のベストセラー。読んだのは今年の2月だが(マルドゥック・スクランブル冲方丁が時代小説を書いたと聞けば見過ごすわけには行かない!)、今頃の掲載・・・(汗)。



将軍が家綱から綱吉に代わる頃、貞享暦改暦事業に打ち込む碁打ちの青年を主人公に、こけつまろびつの青春と事業の苦難を描いた歴史熱血青春小説である。

二十二歳の安井算哲は、囲碁をもって将軍に仕える碁打ち衆安井家の実子であるが、出産の前に父親が養子を取っているため、義兄が総領であり、家業の責任は義兄に任せ、なおかつ婿入り先の算段などする必要もない、恵まれた立場にあって、趣味の算術や暦学に打ち込んでいる。公式の場以外では渋川春海を自称しているのも、上覧碁に退屈を感じており、何か己を生かす道を探しているからだ。

ある日、神社に掲げられた算額絵馬の出題を鮮やかに解いてしまった関なる算士に興味を持ち、まだ見ぬ関にあこがれを持ちつつ関係先の算学塾に出入りするうち、関への出題を思いつく。それは後に誤謬であることが分かるのだが、独創的な誤謬であり、腹を斬ろうと思うほど恥じ入りつつも、この辺からが人生の転機になってゆく。

春海は未熟ながら、熱く夢を語り、突き進んで行く男である。もちろん秀でたものを持っているからこそ、改暦事業に絡んで、酒井忠清、徳川光国、保科正之など、幕閣の権力者たちに注目されているのだが、このあたりではまだまだ頼りない。

各地での北極星の緯度を計測する事業の記録係を命じられた春海は、この旅で、建部昌明、伊藤重孝という二人の算術好きの老人に、翻弄されつつも大いに学ぶことになる。北極星の緯度を予測しては当たったの外れたのと大騒ぎする、稚気あふれる老人たちの姿が楽しいが、山崎闇斎、徳川光国など、春海に助力する有力者たちは概ねこんな感じのキャラクターだ。徳川光国は知性と凶暴さを併せ持つ権力者であり、学問で業績を上げた春海を大いに褒めつつ本気で悔しがり、「殺意のこもった賞賛の視線」を送ったりしている(笑)。

会津藩保科正之は、様々な建策をして、幕府を平穏な時代の行政機関に作り変えようとしているが、その人柄も謙虚で温厚で清冽である。宣明暦が古くなり、天文の蝕の予言に関して二日もずれるようになっていることを慮り、春海に改暦事業を依頼するのが保科公だが、ことは帝の権威に関わることであり、失敗すれば幕府が吹っ飛ぶことを懸念している。暦は、宗教、政治、農業、経済などに関連する、権力の象徴でもあるのだ。

春海を助力する脇役たちもそれぞれキャラが立っていて読ませる。義兄が保科家で碁の指導をしている縁で、春海も会津藩江戸屋敷に居候しているが、算術好きの藩士で「律儀と筋とを、義理で固く締め、謹厳で覆ったような男」安藤有益とか、飄々とした算学塾の指南・村瀬義徳とか、皆気持ちの良い男たちであり、春海ととともに好感が持てる。

暦についての詳細が語られがちな後半よりも、こけつまろびつの青春を描いた前半の方が面白いが、二十数年をかけての事業は大成するのか、試行錯誤を繰り返しながらの展開がスリリングだ。春風のようにのほほんとしながらも目的に向かって突き進んで行く春海の行動がなんとも楽しく、つい肩入れをしたくなる主人公を持ってきたところが勝因だろう。清爽で痛快だ。

数年前に書かれたマルドゥック・スクランブルでも脚光を浴びた作者だが、時代小説でもここまでのものを書けるとは恐れ入った。出自がSFだったことと言い、青雲の志を描く上手さと言い、なんとなく宮本昌孝と重なる感じがある。