本・花・鳥(ほん・か・どり)

本とか植物とか野鳥とか音楽とか

漱石俳句集/坪内稔典 編

夏目漱石正岡子規の親友であり、子規が近代俳句確立に奮闘しているとき、自分も熱心に句作に励んでいたが、ロンドン留学中に子規が亡くなり、その後小説に移行したようだ。

自分は漱石俳句の抒情性とほんのり味わいのある諧謔性俳諧味)が好きだ。以前から「菫ほどな小さき人に生まれたし」が好きで、その他ネットで漱石俳句を拾い読みしたことはあったが、まとめて読んでみたのは本書が初めてである。

本書は、口語俳句を得意とする坪内稔典が、全2600句余りから848句を選り抜いたもの。抒情と諧謔が二つながらにたっぷり味わえる。因みに坪内稔典は俳句結社船団主宰で正岡子規研究者でもある。「三月の甘納豆のうふふふふ」が氏の代表作かどうか分からないがとりあえず一番有名かもしれない(笑)。

閑話休題漱石の句は、子規に添削を乞うべく作品を手紙に記したものが多いようで、だから子規への挨拶の部分もあるそうだ。しかし、独立した作品として立派に面白い。

ただ、諧謔が過ぎて頓智機智が利きすぎているものも見られるが、このあたりはいかにも「吾輩は猫である」の作者らしい。本人は至って真面目なのに、傍から見るとおかしくてたまらない苦沙弥先生を彷彿とさせる。

「諷詠」と言う俳誌があり(後藤比奈夫という高齢の俳人が主宰で、その飄逸な句風がとても好きだ)、謙虚な写生を標榜しているが、漱石の俳句にこそ謙虚な写生が見て取れるような気がする(時に技巧に走ってはいても)。目の前の小さな自然に思いを寄せ、それを文章の上に切り出し、ほんの少しだけ己の感情を覗かせるという、実に俳句の王道のように思う。ホトトギスの仲間であった高浜虚子は俳壇のボスとなり、その権威は未だに子々孫々に伝わっているが、俳句の精神はどうなんだろう。

以下、好きだった句(◎は特に)を抜き書き。ただし×は技巧的過ぎていやらしく思えた句。



蛍狩われを小川に落としけり

雀来て障子に動く花の影

こうろげの飛ぶや木魚の声の下(兄嫁葬儀)

矢響のただ聞ゆなり梅の中(「大弓大流行にて小生も過日より加盟致候」)

烏帽子着て渡る禰宜あり春の川(烏帽子着て誰やらわたる春の水/与謝野蕪村)

去ん候(さんぞうろう)これは名もなき菊作り(或人に俳号を問われて)

むつかしや何もなき家の煤払

親展の状燃え上る火鉢哉

陽炎の落ちつきかねて草の上

叩かれて昼の蚊を吐く木魚哉(当ブログ註:「叩かれて蚊を吐く昼の木魚哉」が江戸時代にある由)

雪霽れたり竹婆娑々々と跳返る(当ブログ註:婆娑々々=ばさばさ)

奈良の春十二神将剥げ尽せり

落つるなり天に向って揚雲雀

乙鳥(つばくろ)や赤い暖簾の松坂屋

どこやらで我名呼ぶなり春の山

仏壇に尻を向けたる団扇かな ×

朝貌(あさがお)の黄なるが咲くと申し来ぬ

行秋(ゆくあき)を踏張てゐる仁王哉

秋の蠅握つてそして放したり

挨拶や髷の中より出る霰

生垣の上より語る小春かな

落ちさまに(あぶ)を伏せたる椿かな × (当ブログ註:あぶは亡の下に虫二つ)

菫ほどな小さき人に生まれたし ◎

(こおろぎ)のふと鳴き出しぬ鳴きやみぬ(当ブログ註:虫偏に車)

水仙の花鼻かぜの枕元

来る秋のことわりもなく蚊帳の中

禰宜の子の烏帽子つけたり藤の花

かしこまりて憐れや秋の膝頭

落ち合ひて新酒に名乗る医者易者

石打てばかららんと鳴る氷哉

春この頃化石せんとの願あり

蒟蒻に梅を踏み込む男かな

道服と吾妻コートの梅見哉

釣瓶きれて井戸を覗くや今朝の秋

見付たる菫の花や夕明り

朝皃の葉影に猫の眼玉かな

花食まば(はまば)鶯の糞も赤からん

酸多き胃を患ひてや秋の雨

草刈の籠の目を洩る桔梗かな

飯蛸の一かたまりや皿の藍

塩辛を壺に探るや春浅し

五月雨やももだち高く来る人

木蓮に夢のようなる小雨哉