本・花・鳥(ほん・か・どり)

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実さえ花さえ/朝井まかて

園芸文化が隆盛を誇った江戸期の向嶋で、趣味の良い小さな苗物屋を営む信次とおりんの花師夫婦の春秋を描いた園芸時代小説である。花師とは、育苗や育種を専門とする職人で、いわば江戸のナーセリーであろう。江戸の園芸に興味がある植物好きには設定がたまらないし、花の美しさに人生を仮託した物語の筋立ても美しく嫋々としている。読みどころも沢山だ。

江戸城にも出入りする大手の植木商霧島屋で修行した信次は、技術はしっかりしており、なおかつ珍奇さばかりを尊ぶような品種改良には懐疑的で、元の良さを生かした育種を心がけている。そこを気に入られて、趣味人である大店の隠居から快気祝いに大量の桜草の鉢植えをを発注されたり、更には、身分の隔てなく出品できる難易度の高い花比べに出品を誘われたりするが、そこに何かと妨害が発生する。それを夫婦の機転や回りの者の思いやりでいかに凌いでいくかがスリリングだし、信次とおりん、信次と霧島屋の娘(優秀な花師)などの男女の思いや、親子の柵(しがらみ)などが淡々と語られていて情感たっぷりだ。過去を断ち切るために出会った際の台詞「実さえ花さえ、その葉さえ、今生を限りと生きてこそ美しい」の気概が何とも素敵でグッと来る。

信次の知人が押しつけていった子供・雀(しゅん吉という名前なのだが、鼻づまりで自分の名が上手く言えず「ちゅん吉」となるので、付いた渾名が雀)が可愛い。駄目おやじとダメンズみたいな母親の間に生まれ、母親はDVに耐えかねて別の男と出奔しているが、曲がったところはなく、聡明で素直な子供なのである。怒りと己の卑小さにまみれてどうしようもない駄目親父が心の底に見せる真実なども何とも・・・。

雀をからかう辰之助は17歳の大店の若旦那だが、美貌の上に奇矯でもあり、人が良いのか悪いのかよく分からない、秀逸なキャラクターだ。畠中恵の諸作に登場するのほほんとした若者を少し悪辣にしたような感じだろうか(笑)。

染井吉野(桜)や紫式部(紫色の実を鑑賞するクマツヅラ科植物)の来歴が重要なモチーフになっており、これも読ませる。日本中に植栽されている染井吉野について、京都の桜守佐野藤右衛門氏は「実生では増えず、すべてクローンなので蜜も香りもなく、鳥さえ寄ってこない」とにべもないが、本作中では、美しく咲くためにすべてを傾注し、蜜も子孫も持たない染井吉野を「ただ、人のために咲く、なればこそ美しく、人の手を好む桜なり」としている。桜に対する愛情を感じさせる述懐だ。

読みどころは山のようにあるが、りんがやはり魅力的だ。手習いの師匠をしていた、名前の通り凛とした自立的な女性だが、亭主の過去を疑ってはやきもきしたり、雀を思いやってみたり、強く可愛い女に描かれている。

老中を退任した松平定信が一人の花好きとして登場するが、松平家の庭(懐かしいと思わせるような郷愁に満ちている)で聞いた定信の言葉に対する信次の感慨がこの物語のすべてを語っているような気がする。

武家が花を愛でるようになった始まりは、命への懐かしみである。出陣で城を出る前に鎧具足をつけた姿で花を生けた。それが立華の始まりなのだ。死を覚悟した時に、山河に生かされてきた自らの姿を写したのであろう。その儀式のために、風趣に富む枝ぶりの草木を探して揃えるようになったのが植木商の始まりである」


信次は、定信の言う命の懐かしみという言葉が胸に響いた。この屋敷の庭には、確かに命が満ちている。あの世じゃないのだ、今生の命という命が集っているから美しく、あんなにも懐かしい気持がこみ上げて来たのだ。

どんなにクサかろうと、植物好き・庭好きの気持を代弁しているように思えてとても好きな場面だ。花の美しさと人生を重ね合わせすぎて、やや説教臭いかなぁと思う面もあるが、植物好きにとってはこれくらい何でもない(笑)。


↓本書を加筆・改題「花競べ」