本・花・鳥(ほん・か・どり)

本とか植物とか野鳥とか音楽とか

さようなら

屁爆弾さんid:hebakudanとは元々mixiの読書コミュでご一緒させて頂き、彼女のmixi退会後は、ブログの(「本と屁爆弾」、その後「血止め式」)追っかけをしてお付き合い頂いていた。広範な読書量と該博な知識、そして鋭い考察にいろいろと蒙を啓かれたものである。

昨年の秋口、新たな天地を求めて東北の方に移られたのも束の間体調を崩され、東京に戻って療養生活を送られていたが、重篤な病であり、専門病院での入院加療が必要ということで、しばらくブログを休まれるとご主人が代理投稿されていたのがいたのがついこの間である。それで、メインのアカウントで下記のようなエントリを投稿した。

http://d.hatena.ne.jp/suijun-hibisukusu/20100426/p1

そのエントリにはコメントを頂いたし、その後も、以前に記事にした落葉樹の写真を引き合いに出して「今年suijunさんが裸の木々のお写真を撮られる頃までには戻って来たいです。行ってきます。」というコメントを頂いたりして、元気になって戻ってこられることを半ば祈念し、半ば確信していた。

そして、昨日、はてなアンテナに血止め式の更新が記されてあり、また何かご主人が代理で投稿されたのかと思って読んでみたところ、彼女の死を知らせるものであった。入院の三日後(もう一週間ほども前だ)、くも膜下出血で亡くなられた由。がん治療で入院されたはずだったのに・・・。

http://d.hatena.ne.jp/hebakudan/20100508/1273316413

会ったこともない、ネット上の知人の死である。それがこんなに自分を動揺させる。

彼女は頭頸部の癌を患っており、目が開かないくらいに腫れ上がることもあったようで、医師から目の使用を禁止されていたそうだ。あれだけの読書家が本を読むことを禁じられたら、それは辛いものであったろうと思う。

しかし、ブログの執筆意欲は衰えず、病床でICレコーダーに日々の思いを吹き込まれていたそうで、病みつきボイスという名の感慨が綴られている。




(最後の録音)病みつきボイス/5月2日 日曜日 夜8時

家から2冊だけ持って来ている本は、ヒルティの『眠られぬ夜のために』と、セネカの『人生の短さについて』。今日は無理をしてでもこれを少し読みたいと思っていたが、夕方から頭痛がひどくて本のページを開くだけのことが絶望的に難しい。

夫が書いたブログ中断の通知エントリに心のこもったトラックバックをくれたネットの友人たち。私を必要としてくれた彼らのあの文章が宝物のように思える。こんなにいいことがあったのだから、ここらあたりがほどほどのところなんじゃないか。母は30代後半、父は40代なかばで亡くなった。当時子供だった私は今や父母の享年を越えている。ぼちぼち潮時かも知れない。私はもう充分生きたように思う。



自分も彼女のブログにトラックバックを送らせてもらったが、最後の日々、自分のことを少しでも思い出してもらえていたなら、悲しいが光栄である。

それにしても、なんと静かで力強い覚悟だろう。諦念ではなく、あるがままを淡々と受け入れ、肯定しているように感じられる。人生八十年とするなら、彼女は倍のスピードで生きたのかもしれない。

ただ、ご遺族でもないのにこんな言い方をするのは僭越だが、残されていく者は辛い。もう、あの、知的で毒舌でひねくれて飄々として暖かい文章に接することは出来ないのである。

ブログでも小説でも、自己陶酔や自己満足を垂れ流す文章には容赦なく鉄槌を下す人で、露悪的なところもあったが、恐らく直截に語ることを恥としていたことの裏返しであったろう。ご自分のブログの過去のエントリを読み返しては、こんな文章は恥ずかしいとしてバッサバッサと削除していく人だったが、この潔さ、そして自他を笑いのめす諧謔性が彼女の本領であり、数多の人を惹きつけた魅力だったのだと思う。他者への容赦ない批判も、執筆者としての責任を引き受けた上でのことで、あえて摩擦も避けなかったところは、ヘタレな自分からするととても勇気のある態度に見えた。


本日は月に一度のお楽しみの探鳥会に参加した。例え知人の訃報に接しようと趣味を楽しんでしまうのが自分の軽薄さであるが、柔らかな緑色に映える青葉を見上げ、あれが裸になっても屁爆弾さんは戻ってこないんだなぁと考えながら歩いていた。

今までのお付き合いに感謝すると共にご冥福をお祈り申し上げる。死後の世界は信じていないが、この先、自分がこの世を去って後、再会出来ることがあれば欣快である。さようなら屁爆弾さん。