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風は山河より(全五巻)/宮城谷昌光

松平清康(家康の祖父)から始まる徳川家の創業を、野田菅沼家から描いた大河歴史小説である。もっぱら中国古代史を舞台にしてきた著者だが、愛知県の出身であるし、三河地方への思い入れがあったのかもしれない。

有力土豪であった松平家が世良田の氏を名乗り始めたことを知った菅沼新八郎定則は、清康が覇業に踏み出したこと推測し、いち早く麾下に駆けつけて信頼を得ると、三河一円への切り取りに協力し自分も大きくなっていく。知謀と行動力と慈愛と観察眼を持つ新八郎は颯爽とした中年男として描かれているが、かつて父親が「松柏になろうとしてはならぬ」と訓戒したのを肝に銘じ、出過ぎようとはしていない。これが徳川に徴用される基となったのだろう。

因みに世良田とは新田義貞の後裔の氏であるが、義貞は足利尊氏と反目しているので、つまりは足利幕府には従わないと言う意思表示である。家康が世良田を名乗ったの、源氏の頭領のみに許される征夷大将軍叙任のためであったろうが、このときの清康にそういう意思があったのかは分からない。

宮城谷作品の特色として、人の行動、心理、器量、胆力、知謀、怜悧さ、清冽さなどを倫理や哲学に照らしてことさら説教臭く描きがちである。これが「リーダーはどうあるべきか」などということを歴史に求めたがるビジネスマンの教科書として売れる要因となるのではないかと思うが、どうも小賢しくてうっとうしい。更に、幸運・不運や、物にまつわる因縁、悪縁など、巫術というかオカルトというかシャーマニズムといった、宗教めいた要素も多用されるが、古代中国には似合っても、戦国の日本ではいかがなものだろう。まぁ、当時の日本なら、信心を持ち、縁起を担ぐのは当然だったろうが、合理主義者信長の印象が強いので、どうも似合わないような気がしてしまう。

三河武士を、知より情の人であるとして、合理的な戦略を持たずしゃにむに敵に突進していくような戦い方を称えるとしているが、それが武士団の結束を生み、逆に合理主義者の離反を招いたりしている。しかし、この三河ど根性は、高度成長期の日本にまで生きたのではないだろうか。トヨタの車の堅牢さを三河根性としている小説があったが・・・(笑)。尾張の理知と三河の熱情と、隣り合っているのに風土が違うのは面白いことだ。

清康は覇業半ばにして倒れ、以後、家康が今川から独立するまでは三河の冬の時代が続くことになるが、野田菅沼家の関わりが濃密に描かれていく。ただ、のべつ現れる作者の考察はうっとうしい。史料に現れる矛盾点を一々羅列しては自分なりの謎解きをしてみせるのだが、司馬遼太郎以来の悪しき慣例だと思う。歴史が勉強できると言うことで、それが人気のもとにもなっているのだろうが・・・。

時が経って、今川の没落を契機として家康が平定し始めた三河に、甲斐武田が侵略を始める。信玄麾下の秋山信友が威圧的に服従を迫り、これに靡く三河の豪族で続出する中で、頑なに家康から離反しない野田の菅沼定盈は、小勢をもって秋山勢を蹴散らし、ついに信玄自らの出馬を引き出す。ここに菅沼定盈の名が歴史に刻まれることになるのだろう。

野田菅沼家初代の定則は、古河公方の血胤である野田四郎を保護して傅育するが、四郎は三河の山河の清浄な気をまとっていると考えていた。菅沼三代に仕え、大いに力を発揮した四郎は確かに開運の申し子であろう。四郎を保護してきた歴代菅沼家当主もまた清爽な気を持ち、実に清々しさを感じさせる主従であるが、「風は山河より」というタイトルがこの人物たちのすべてを語っていると思わせる。もったいぶった語り口調がやや鼻にはつくが、とにかく気宇壮大な歴史小説だった。